自分の感覚を磨く




私の摂食障害は、高校生のころに始まりました。
たべられなくて拒食状態になったり、体を傷つけるようにたべて、過食や過食おう吐になったり…。そういう状態が長く続いたまま生活していました。

自分なりに、どうすれば治る方向に行くのか、どうすれば私の人生は生きやすくなるのか、その都度考えて、いろんなことを試したり、ほっといてみたり、毎日試行錯誤しています。症状の細かな変化を経ながら、今もその延長にいると思います。

摂食障害になった最初のころに比べると、現在はだいぶ、
”自分の気持ちというものを大切に扱おう”とするようになったと思います。

私って、今つらく感じてるのかな?

やらなくてもいいことをやらなきゃって思ってないかな?

こういう時は、胸がぎゅーっとして緊張するなあ。

AとBだったら、どっちがいいかな。

この場所にいくと、なんか気分が軽くなるかも。

…日常の中の、そんな些細な気持ちの動きに気づくことが多くなったし、それを

じゃあ、いったんやめてみよう。保留にしよう。

いい気分だから、もっとやってみようかな。

興味がやっぱりあるから、聞いてみよう。

など、実際の行動につなげるようになっていったと思います。

それまではどちらかというと、自分の感覚より、周りの評価や空気といったものに敏感に反応していることが多く、相手の表情をみて、言おうとしたことが言えなくなるなんてこともよくありました。

「相手がこう言ってほしそうだから、こう言おう」
「こう思われてしまうから、言ってはいけない」
「私がこうしたくても、反対されたらそうするしかないんだから、どうせ無理なんだ」
「これが正解の答えなんだから、私も同じように思わないといけない」

もちろん、周りの気持ちに合わせてあげることは、必要なことで、思いやりでもあるかもしれません。

ただ、私の場合は、周りの目ばかり気になって追いつめられてしまう・自分の意見がよくわからない、というところまで行って、生きづらさにも関係していたので、あらためて、
「私はどうしたいんだろう。どう感じてるんだろう。」という感覚を見つめ直すことが必要でした。

自分の感覚・感じ方に注意を払うようになると、
「こういう場所に行くと/こういうことをすると/こういう時に、私っていい気分になる」「こういうやり方だと、割とうまくいくな」というようなポイントが見つかったり、
「あの時はこう思ったけど、今ではこう感じる」といった、自分の変化にも気づくようになってきました。

また、そうするなかで「他の人の気持ちを、そんなに心配しなくても大丈夫なんだ」ということもわかってきました。
無意識に、私がこうしたら、親はこうなってしまうのではないか。とか、相手はこうできないのではないか。ということを、いつも考えて行動していた部分があったのだけど、もしそうだとしても、そういう場合には、相手が自分で「こうしてほしい。」と私に伝えればいいことなのだ…。そんなふうに初めて考えました。

お互いに気持ちを読み合ったり、推し量りあうばかりじゃなくて、必要があれば、そう伝えればいいんだ、私もそうしていったほうがいいし、相手にもそうする力はきっとあるんだと思うようにもなりました。

…ただ、安心できる環境や、そうしてみようと思えるだけの信頼感がお互いにないと、それはとても難しいことなのかもしれません。

現在の私が、そんなことを意識できるようになったのも、摂食障害などについて正しい理解をしてくれる人が周りにいたこと、家族が以前より、この病気にびっくりしなくなったり、気にかける努力をしようとしてくれていること、新しい視点をくれる人たちがいたこと…など、その一つ一つが作用した結果でもあると思います。

そうして、安心を感じられる部分が自然と増えていき、自分のことを客観的にみれたり、よいと思うことを取り入れる余裕ができたのかな、と思っています。

一人ひとりの理解や反応の仕方、体の状態…というのは、本当にちがっているので、やはり、それぞれが自分の感覚を磨いて、大事にあつかってあげて伸ばしていく…。
それがその人にとって、一番ムリなく生きていける方法を見つけるヒントになる気がしています。今はそう考えています。

By 匿名(ピアフルフレンド)

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